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 No.350-27 みずき 2016/09/03(Sat)11:09
こんにちは

うわー、紫音マスター!
超久しぶりですねえ。よもやもう一度お姿見られるとは、人生って何があるか分からんなぁとちょっと思いました


>中学生だったのに二十歳

この文面を見てどんだけ驚愕したか(笑)
いや〜、若い人とは時の流れ方が違うなぁと感じます(笑)

私が初めて書き込んだときで32〜33歳くらいかな?
歳明ければ晴れて四十路ですが、32が39ってのと中学生が二十歳ってのとの、この聞こえ方の差(笑)

ちょっと逸れますが、アインシュタインが相対性理論を構築するきっかけになったのは
「好きな人といるときは時間が過ぎるのすごく早いのに、どうして嫌なやつといるときはこんなに遅いんだろう」
とかっていう俗っぽい考え方だったと聞いたことあります

アインシュタインにおもねられるほど崇高な考えではありませんが、同じ7〜8年でも流れって違うんだなぁ(笑)


>幸せ

うーん、そういう素朴なことでいいんだと思うんですよ
別にそれを否定してるでも、悲観してるでも、絶望してるでもない
実際こうして紫音マスターにまみえたことを素朴に喜ぶ自分がおり、これをくだらないとか思う感情はまるでない。むしろ逆は素直にあります。


私の言ってる退屈だとか幸せだとかは論点がそういうことでなくて、説明難しいがなんだろう…この考えの先にある真理が見たい。に近いのかなぁ

昔から突き詰めるタイプというか哲学的傾向はありましたが、どうにもそれが年々増すようで、何やら仙人的になってると言われてます(笑)

知り合いの達観した方(男性)も似たような過程を経たようで、
「退屈の向こう側はまだ見えんか?」
と問われてますねぇ

「人間五十にして生まれてきた意味を知る」とは、孔子だったかそのへんの崇高な方だったそうなんですが、その片鱗にでもあやかりたいですねぇ


問答と同じく結局その答えに帰結するのかもですが、それも問答と等しく分かってる答えに辿り着くときの、あの突然視界が拓けたような発想が必要です
発想というか、自分なりの根拠というか
説明難しいですね(苦笑)


【隻手(せきしゅ)】という問答がありまして、一度それをやったことがあるのですが、

両の手を打って鳴らして「今鳴ったのはどちらか?」というものです

最初私は
「どちらが鳴ったでなく、両方を合わせたから鳴ったんだろ?」
と端的に答えましたが
「それでは事象の説明をしているだけで問答にはならない」
と言われまして、また考えて「右手(利き手)」という答えになったり、数日紆余曲折を経て「やっと答えに辿り着きましたな」と認められたときは、結局最初の答えのようになったんですが、自分の中では最初の答えと全く意味が違いました


要は幸せ(人生)についても、悲観してるでもなんでもなく、そういう答えを求めている最中ですかね




紫音マスターをいじる時間がなかった(笑)
また気が向いたら来てねー、ではまた